【大河原愛】
卓越したデッサン力 身体と精神の相克にみる精神性
省略・消去から「垂直的時間」を感得

寺田創一(絵画コレクター)

 大河原愛の作品をまとめて観たのは、確かもう5~6年前の新宿高島屋だったと記憶している。それまで、実際にこの眼で実物を観てこなかった作家だったので、雑誌で観て受けた作品の刺激をこの眼で確かめたかったので軽い気持ちで覗いてみた。遠目に観ていると「幻想絵画」のような様相も感じられた。しかし、作品を前にして、私は衝撃を受けた。期待をはるかに裏切るほどの感動を覚えた。「感動」といった陳腐な言葉では片付けられない。作品は一瞬を切り取って即興的に活写して、観る者にインパクトを与える、かと思いきや、別の作品では静謐にして心地よい思索の森に無限に沈潜していくように誘(いざな)われる。「幻想」どころか、この画家は「リアル」を追求しているのだと直観で思った。私は、自分が興奮しているのを鼓動で感じていた。

 この画家の特筆すべき点のひとつには、圧倒的で完璧なデッサン力があげられる。恐らく相当な時間をデッサンの研鑽に費やしたのではなかろうかと想像するに難くない。女性像の顔は極めて端正で貴賓があり魅惑的である。また裸婦(ヌード)でも着衣でもその描線はモチーフにより大胆であったり、女性的な美的なフォルムで柔和に描かれたりしており、いずれにも迷いがない。観る者の視線をぐっと引き付け支配しているが、それは高圧的ではなく眼にやさしい。従って、限りない「美」のオーラを放つのだ。身体をモチーフに、特に舞踏家を描いたと思われる激しくパワフルな作品、それとは対照的な静謐なる瞑想の世界に導き入れられたような錯覚に陥る作品もある。動と静、対照的な人物像を創造している。それは、並大抵のデッサン力では表現しえないものであり、筆舌に尽くしがたい。裸婦を描く上では、身体(肉体)についてもかなり研究したのではなかろうか。骨格、筋肉のつきかた、それが動作によってどう変化するかなど、的確かつ優れた観察眼を有している。
 
 さらに、成功の要素は、表情による固定観念が付くことを忌み嫌い、ある時は、フランシス・ベーコンのように顔や足は流れ去り消去・省略される。例えばデフォルメされた肋骨を極度に強調して身体の湾曲に比重を置く(作品では「Camouflage 2」(2019))。

大河原愛「Camouflage 2」
キャンバスに油彩 84.3×119.5cm
2019

 また、静謐なる女性像の表現では、眼を隠したり(覆ったり)、あるいは瞼は閉じられたままにして、特定の意味を絵画表現の中に持ち込ませない。これにより、観る者の想像力は増幅されると同時に、神秘的な世界が開かれる。こうした省略・欠損の技法は今までなかった訳ではなく、時に観ることがある。大河原は、現在よく描かれている白日会系の超写実の方向には走らず、その真逆に、描いた女性像を自ら破壊していく。完璧性、完全性、リアル性を敢えて否定して、恣意的に完璧で完全なものから消去したり、覆い隠したり、いい意味で汚してみたりすることで、描かれた人物像の存在感を増幅し、あとは観る者の想像力に委ねる。それが、画家が目指したリアルであり、「美」であり、意図的に追求しているものであると思われる。不可視な(省略された)部分を含めた全体から生成される人物存在を画家は「精神性」と言っているのではなかろうか。精神性を引き出すために完璧な身体描写が必要だったのだ。そして欠損(省略・消去)は、画家における引き算の美学と言っていいかと思う。実際、その作意的試みは成功し、より魅力的に観る者を誘う。
 
 次に、画家が描きたいものを考察してみる。配色で特長的なのは、大胆な「黒」の使い方。闇を表そうとしているのか、あるいは白との対比で使っているのか、黒というよりは「墨」を思わせる。ただ、本当の狙いは光の方にあるのだと思う。この画家が表現したいのは陽の光ではなく、「内在する光」ではなかろうか。「内なる光」とは精神が発する光であり、「自然」であることを意味する。
 この「内在する光」「自然」というのは、哲学的には、「即時存在」ということに他ならない。つまり主体のみの世界を意味する。見る・見られるといった客体関係が否定される。つまり「あるがままの状態」なのだ。イコール「自然」であり「神」といっていい。画家は実存的な手法でカンバスにおいて対象と対置しているのだと直観的に思った。恐らくそれを、欠損した身体描写から露呈してくる真の「精神」の出現を狙っているのではなかろうか。
 
 これをもう少し考察してみると、ガストン・バシュラールという哲学者は、次のように述べている、
 「ポエジーは瞬間を求める。それはただ、瞬間しか必要としない。それは瞬間を創造する。ポエジーが自らの活力を発見するのは不動化された瞬間の垂直的な時間の中においてである」(G.バシュラール「瞬間の直観」(紀ノ国屋書店刊)訳者あとがきから引用。(なお、バシュラールは、ポエジー=(詩学、詩)を美学、美としていることから、ポエジーは「美」と置き換え可能である。)
 私は、大河原愛の一連の作品に「垂直的時間」を感じ取った。ここでは客体が否定される(対他存在の否定、即自存在的姿勢)。従って、絵画においては、空間が重要ではあるが、同時に時間の概念も重要で、空間と時間はセットで語られるべきである。従って、大河原が、不完全性の中に精神性を追求しているのと同義で「垂直的時間」を無意識の中で獲得していることこそが「精神性」であると言ってもいいようにと思われる。ジャコメッティも、この「垂直的時間」を獲得した芸術家だ。彼は不要なものをどんどんそぎ落としていき、ついには細く小さな人物像を制作している。造形芸術なので物理的にも「垂直的」なのだが、その細長い人物が計り知れないエナジーを内包し、発散し、観る者を瞬時に虜(とりこ)にしてしまう。
 
 モノトーンを基調にしながらも、省略・欠損部分には大胆にショッキングピンク(フューシャピンクというのだろうか)を使ったり、2008年や2009年の作品はこのショッキングピンクをバックを背景に塗り込んで、黒の輪郭線で人物を描いてみたりしている。ただ、ショッキングピンクのみならず、様々な色のバリエーションが絵画全体をコンポジションしている。さらに塗り込みではなく、篠田桃紅のような手彩色的な使用(線一本の妙)や、色の組み合わせで、独特の音楽的なハーモニーを形成したり、また、カンバス全体にベールをかけたような処理など、様々なバリエーションを生んでいる。実験と実践を同時並行的に行っているような感じを受ける。これらの色が抽象へと全体を誘う役割を果たしている。ここは大河原特有の色使いであり、筆使いである。もともと、抽象化とは、「わかりやすく」する行為であったはずである。しかし、どうしても意味づけしたい人間は抽象画を見て、「意味が分からない」という理由で逆に難しくしてしまったことは残念なことだと思っている。抽象画は不必要なものをそぎ落としたり、一旦、対象を解体して再構築したり、デザイン化したりしてわかりやすくしようとしたが、意味づけを求める人々によってとても難しくなってしまったのではなかろうか。よって、今流行りの写真の如き超写実は、細密画として極めて「わかりやすい」絵画であり、具象の典型となり、よくここまで見事に描いたという評価を得ている。少なくとも今の日本においては。マレービッチにしても、どうしてマルだけで芸術となるのか疑問に思う人は少なくない。
 
 私が今回求めた作品(「遠き静寂の中に 1」)は、眼がしっかりと描き込まれている。

大河原愛「遠き静寂の中に 1」
キャンバスに油彩、エンコースティック 53×41.2cm
2021

 タイトルに「遠き」と入っているので、遠くを凝視(みつ)めるその目は美しく、恐らくモデルは日本人ではない(多くの作品のモデルが東洋系の人物ではないと思われる)。何を見入っているのかはわからない。忘我や放心の境地にあるようにも見える。眼を閉じればそこには過去しかない。従って、特定の対象ではなく、未来永劫、果てしなく無限的、永遠的なるもの、未来への眼差しかもしれない。絵画全体は神秘のベールに包摂された趣をもつ。油絵ではあるが、プラス「エンコ―スティック」とある。ここは絵画技術的な話になるので私自身は全く部外者ではあるが、少し調べてみると「蜜蝋」とあった。これをカンバスに塗り込んで、引っかいたり、絵具で描いたりするようだ。蜜蠟画という絵画があり、サンプルを見たが、これが一連の「Recalling places」シリーズに応用されているのではないだろうか。

大河原愛「Recalling places 37」
紙にエンコースティック、パステル 37.3×27.3cm
2021

 従って、この「蜜蝋画」の感触を油絵で再表現しているのかもしれない。大河原の絵には、何かで引っかいたような跡があったりするのが見てとれるので、大河原愛にとっては「エンコ―スティック」は自家薬籠中のある表現方法ではないかと思った。経歴から、大学では日本画専攻となっていたので、おそらく顔料にも詳しく、さらにアメリカなどでの経験から油だけではないプラスアルファの手法が使われているようで、そういったところの研究にも余念がないので、感心させられた。

 今回、美術手帖の「OIL」から、大河原作品を購入できたことはラッキーだった。他の作品も魅力的で色々迷ったが、珍しく「見開いた眼」を表現している作品に心奪われた。恐らく、私のような素人よりも、本当に絵画のよさ、深さをわかっている人が持つべき作品の数々だと思った。ただ、私のような者が落手できて本当に幸せな気分になった。様々なバリエーションを持っている無限の可能性を秘めた画家であり、文字通り「ブレイク前夜」。さらなる発展は約束されている。陰ながら今後も応援したい。
=了=
                               

(注釈)
〇文中での敬称は省略
〇参照文献
大河原愛関連
「EXTRART FILE 21」(アトリエサード刊) P.14~ 志賀信夫氏の評論
また、作品に付された略歴 など
その他参考文献
G・バシュラール「瞬間の直観」 掛下栄一郎訳 紀ノ国屋書店刊
訳者「あとがき」から引用、参照。
※ガストン・バシュラールはフランスの哲学者(1884年生)。
ベルグソンの「水平的時間」に対して、「垂直的時間」を提起した。

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