脚本家の山田太一が、インタヴューを受けているときに最近の世相を語っている場面があった。その中で山田は、近年の無差別殺人あるいは実子に対するネグレクトといった社会的な問題に触れると同時に、そのような事件を起こす人々が普段はごく普通の人の様相を示しているケースが多くなってきていると語っていた。一昔前であれば、そのような大きな社会的な事件を起こす人物は幼いときから不幸を背負い、日常の行動様式や人相まで変質をきたしている場合が多かったが、近年の犯罪者は普通の顔をして普通の日常生活を送っているという趣旨の発言であった。要するに、私たちが生活する今この社会では、人の表情や行動からその人の内面や異常性を見通すことが難しくなってきた、ということであろう。
安藤陽子が近年手掛けている作品「portrait」を見たときに感じた、ある不思議な違和感のようなものが、その山田の発言とどこかで結びつくように感じた。と同時に、山田の指摘した内容が端緒となり、安藤の作品から漂う浮遊感というものが、自然主義的な視覚表現によって表現することの限界というものを逆手にとり、人間存在を表現することの不可能制というものを表すことを、その滲んだような画表面に込めながら描いている側面があるのではないかと考えるに至ったのである。安藤の描き出す、とりとめもないような柔和な表情を浮かべる女性の肖像群は、見る者に警戒心を抱かせることは少ないであろう。それどころか、あからさまに日本風であったりアニメのキャラクターから画像を借用したりするような作品風のガジェットが跋扈する現在の美術界の流行に対して、安藤の作品は特徴のないアナクロニスティックな表現として見過ごされてしまいかねない面があるだろう。とはいえ、それは彼女の作品の罠かもしれない。
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安藤作品は絹本彩色という此の国の伝統的な材質と技法を用いている。この技法による造形芸術は、現在では俗に日本画と称されているが、その造形芸術は日本画という名称より遙かに長い伝統を存えてきたものである。果たして安藤は、そのことに対しても自覚的であるだろう。それは彼女の滲んだような画表面にはっきりと刻み込まれているのである。安藤が見出したその造形言語は、「スーパーフラット」というキーワードによって、近年すっかりメジャーになってしまった江戸期の『奇想の系譜』の作家たちの画面構造を換骨奪胎して現代に甦らせた村上隆が、意図的に見逃した「朦朧体」の系譜を継承するものである。朦朧体というのは言うまでもなく。岡倉天心に薫陶を受けた横山大観や菱田春草らが用いた画法で、西洋画の技法を取り入れた没線描法とされているが、しかしながらその媒体にメディウムを浸透させて生み出す画表現は、長谷川等伯の「松林図」によって見られる画法であり、あるいはその等伯が多くを学んだ、室町の頃より大名や茶人たちによって珍重されてきた牧谿による「瀟湘八景図」のような幽遠な山水表現にも示されている。その源流をどこまで辿ればよいか迷う程であるが、少なくともその流れは平安時代から伝わる神護寺の「山水屏風」の霞表現に一つの源流を見出す。そしてまた、その霞表現は時代を下がって近世の洛中洛外図の屏風絵に見られるような金箔の雲に変容して生きている。おそらくは安藤は、そのような我が国のもう一つの伝統的な絵画表現の系譜を認識して、受け継ぐべきものとしてここにそれを表したものであることは間違いない。
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以上のようなもう一つの系譜というのは、安藤の作品と初めて対面したときに感じ取ったことであり、基本的な解釈としては今でも変わりはない。そして、そのような表面的な事象からは、冒頭に述べたようなある違和感というものに対しては何の解答も得ることはできないだろう。その問いは、安藤陽子のオリジナリティーはどこにあるのか、という問題にもつながる筈である。以下にそのことについて考えていきたい。
まず技法的な側面から深度を深めていきたい。前述してきたように、安藤の描写法は「朦朧体」を思わせるような茫洋とした明暗法である。しかしながら、例えば大観による朦朧体の使用がおそらくは単色に近い色彩の明暗法によって空間表現を生み出していることに対して、安藤の技法は黄、赤、青という3原色を混色して色彩を精緻に調整し、さらに何十層にもわたって薄く塗り重ねられることによって表わされている。画面全体を概観できる距離に於いては、その2者の表現を見分ける要素は少ないように思われるが、安藤のそれは僅かな色味を湛えることによって地味豊かな色彩を内包するのである。その絶妙な色合いが、安藤のモチーフとする人物表現に大きな意味を持たせることに説明の必要は無いだろう。さらに、大観の朦朧体による表現に於いては僅かながらも線描表現が入ることによって先鋭な表現として活きることに対して、安藤の茫洋な表現はその微細な色彩表現それ自体によって成立するのである。
そして、冒頭に取り上げた安藤の表現思想(モチーフ)について考えていかなければならないだろう。断っておかなければならないが、人間存在を表現することの不可能制というような問題について作者から確認を取ったわけではない。その問題は、安藤作品の存在理由を問うことにもつながることであり慎重を期さなければならないだろう。ただ、安藤がそれらの肖像作品に「portrait」という匿名的なタイトルをつけているのは人間存在一般を引き受けようとする態度と受け止められることはできる。また、そのことを前提として再度、彼女の肖像作品群を見渡すと、ナショナリティーを判別しかねるような人物たちであることに気づくであろう。そう、ここまで見てくると了解されると思うのだが、安藤の匿名性の強い肖像画は、見ている人の人間存在に対する認識を映し出すような鏡として存在する。そして、この安藤作品という鏡の陥穽(わな)に宿す本当の怖さは、そのことに気づいても見入ってしまうところにあるだろう。
2009年 朔風払葉