一方の、メディアの世界大の展開がもたらしたグローバルなポップ文化の美学と、他方の、二千年以上の時に育まれた仏教のシンボリズム、その両者の微妙な接点から、平林幸壽の芸術は生まれてくる。
今日、日常の全般を覆うグローバル化の中で、アートのグローバル化も進み、世界各地の多様で異なったスタイルや美学、そしてそれに基づいた創作も現れている。そうした状況を、特定の時代様式で括ることは日ましに困難さを増している。それは創作する側にとっては、特定の美学を提示して時代全体を導く、という古き前衛の理念が、ノスタルジックな夢と化したことを意味する。 それでいて他方、市場のグローバル化と共に強まる市場の力学は、個々の創作や鑑賞にとっての新たな枷ともなってくる。グローバル化は、異質で未知のモノや価値を発掘するが、そこに現れる多様性は、一つの舞台の上での役割としての限り、でもあるのだった。前衛の侵犯は、市場のモード創出という現実の内に脱‐構築された。それが今日のアート・シーンの制約であり条件となっている。
そんな時代に、真言密教系寺院の家系に生まれた平林くんを育んだのも、ポップ音楽やマンガ、CMなどのポップ感覚だった。他方、西欧美術や仏教の素養は、多摩美術大学や大正大学仏教学部で学ぶ青年期になって吸収された養分だ。その専門教育を学ぶ課程で、幼少期、意識することなく滲み込んでいた仏教的感性もまた、萌芽しえたのだろう。
この特異な条件から生まれた平林芸術。そこで、現代のポップイコン、長い伝統をもつ密教イコン、西欧近代美術という、機能も美学も異なった三種のイメージ‐シンボル・システムが、リンクした。そのリンクがショートサーキットして、どのイメージ‐シンボル・システムの価値規範からも微妙に偏差した特異なイコンが、紡ぎだされる。
ある作品では、不思議な形のパネルの中に、透明な深い藍色の宇宙が広がっている。その中空にほの白く浮かぶのは、寺院や塔、白象や麒麟といった聖獣であり、つまり浄土の情景だ。パネルの奇妙な形も、実は象やキリンの顔型なのだ。そしてパネルを囲む虹色や宇宙の藍色に深みを与える塗り重ねられた色など、色彩にも仏教思想の象徴色が配されている。つまり彼のアートは、仏教的宇宙図、曼荼羅でもあるのだ。
曼荼羅は、仏教的宇宙観を総合的に表わす象徴的図像だ。だが、そのイメージを解釈するための象徴体系は、怪奇なまでに複雑に構築されている。しかし平林くんの図像構成のスタイルは、伝統的な曼荼羅とはまるで異質な現代のポップスタイルだ。象やキリンの形態は、CMキャラクターを参照しているし、浄土の寺院や仏塔もファンタジー・ゲームのモティーフさながらだ。複雑怪奇な密教的イコノグラフィーがポップ形式で濾過されて、モダンアートの文法も絡めた、それは曼荼羅のポストモダニズムなのだろうか?
今では、データベースから引用されたポップキャラクターと、ポップな文法とモダンアートの文法が織り上げる、ポストモダンのシニカルな共通感覚が広まってもいる。しかし平林くんのアートは、その共通感覚を満たすイコンには収まらない。他方、西欧の一神教的眼差しが、仏教やタオなどの東洋的思惟と感性に求める、約束された神秘と安らぎの定型イコンでもない。 伝統と近代ハイカルチャーと現代ポップ、そのいずれに結びつきつつも、どの法からも偏差して紡がれる独り言。どんな言語も語りえぬ限界なき宇宙を、どんな言語からも偏差した私的な手管で紡ぎ、語ることなく示す、私的言語あるいは《擬‐曼荼羅 quasi-mandala》。アートの法に収まり損なうことでこそ、イメージの果てしないリアルの小宇宙が、仄かに開き始めている。
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